ある方のHPを拝見していて、
「あー、HWCも、障害年金も、
やっていて本当によかったな」と思いました。
ボクは埼玉県ではなかなかの進学校に行ってて、
その中ではズバ抜けて落ちこぼれ、という、
やるのかやらないのかわからない存在でした。
たぶんやらない感じです。
あ、体育委員の副委員長をやってました。
ちなみに白木も一緒です(笑)
高1の時は留年寸前で、夏休みに数学の補講を受けてました。
その時に一緒に補講を受けた友達は、退学したとか、
実際に留年したとかそんなメンツでした。
そんな中、なんとかセンターで引っ掛かった大学にいきます。
ここでは三年にもなって必修の体育をやってましたね(笑)
やはりここでもやらない感じでした。
その頃は音楽をやっていて、そっちはまあまあでしたが、
結局メジャーには行けるはずもなく、就職することになります。
就職では、新卒でそれなりに大きな、
ただしやや訳ありな業界の設備メーカーに就職しました。
ここは大企業でしたし、待遇も良くて、
ここに就職できたのはかなりやる感じでした(笑)
ボクは2003年卒で、当時はめちゃくちゃ就職氷河期で、
高校の時の連中はみんな素晴らしい大学に行ってるんですが
かなり苦戦を強いられたみたいです。
国家一種で霞ケ関行ってる奴もいますけどね。
正直そういう例外を除いてはあまり変わらなかったのかな、と。
そういう話を聞くと、大学三年にもなって、
一年生たちと体育をやっていたボクとしては、
二社しか受けずに二社決めた就活はかなり頑張ったな、と(笑)
そこでは本社の営業企画や法人営業をしていました。
自衛隊に体験入隊させられました。
あれは強要罪ではないかと思います(笑)
ただ、ボクの社会人としての基礎はここで築かれ、
非常に多くの、いろんな考え方を学びました。
今もすごーくためになってます。
しかし、その会社を五年後、アイツ1号が生まれて
わずか二ヶ月で辞め、その月に育ててくれた祖母を亡くし、
そんな中で従業員7名の着物屋に転職します。
ボク、超ばあちゃん子だったんですよ。
この一、二年が、思えば人生の谷だったんですが、
なんかもういろいろとめちゃくちゃでしたね。
平常心を欠いていろいろ決断したのだと今になって思います。
ただ、祖母の死に目に立ち会えたのは、その一社目の会社を辞めて、
二社目への転職時期を遅らせて、待ってもらっていたからです。
それだけは良かったな、と。
しかし一社目のときは借り上げ社宅だったので、
退職に伴ってその家を出ることになりました。
住む家がないので実家に帰ることになりました。
奥サマはもちろん、両親にも心配かけたと思います。
もう、なんというか、この辺りのクダリも
本当にめちゃくちゃですね(笑)
その後、二社目となった小売店でもいろいろあるんですが、
この続きはまた明日にでも。